マインドフルネス

「マインドフルネス」とは、仏教用語の「サティ」を英訳したものです。日本語では「気づき」と訳されます。これを簡単な言葉で表すと「今、ここ、自分に意識が集中している状態」です。分かりにくいかもしれませんが、「集中力が上がった状態」とは少し違います。

 今、目の前で起きていることや見たり聞いたりしていることを、先入観なく受け止められる意識の状態です。ウイキペディアには「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」と書かれています。

日本のマインドフルネス

 一般にマインドフルネスという言葉が使われるときには、もっぱら「瞑想」によって得られる意識の状態という印象を受けます。もともと仏教の瞑想に由来しているので、ある意味でそれが正しい理解だと思います。

 一方で、「気づき」ではなく「マインドフルネス」と表現して理解している姿勢が思考を固定化してしまうような気がします。「マインドフルネス」とは「マインドフル」(mindful:~を心に留める)の名詞形です。

 そして「マインドフル」な状態や「気づき」の状態とはどんな状態かを考えてみると、瞑想以外にも、マインドフルネスに至る様々な方法があることに気付きます。

 日本文化、特に「茶道」「華道」「柔道」「剣道」など「道」のつく言葉で表現される文化は「型」を重要視します。歌舞伎の型では「型に入りて、型を出る」といって、「型」があってはじめて「型破り」の妙味があると言われます。武芸などでいう「守破離」です。「型」は、その表現行為の始めから終わりまでを形式化します。1つ1つの動作の形と、全体の流れから構成されます。

 書道をはじめ、多くの分野で「型を身に着けて、はじめて自由になれる」という言い方をします。この「型を身に着けた状態」がある意味でマインドフルネスに通じていると考えます。能における「離見の見(りけんのけん)」や剣道などで言われる「心眼」や「第三の眼」など、マインドフルネスは別の言葉で表現されてきました。

 また、マインドフルネスは「自由」の捉え方と深く関係しています。西洋で「自由」とは「自分の意思に従って状況を制御できる状態」です。「ああすれば、こうなる」ことが分かっていて、それを自分の判断で行うことができる状態です。「リバティ」「フリーダム」どちらの自由も、基本的には同じことです。

 日本では、仏教思想の影響で「自然(しぜん、じねん)」を一つの自由の在り方として捉えます。良寛和尚の数々の名言がこの心境を現しています。自然と戯れるように生きる人の在り方に日本人は自由を感じてきたのではないでしょうか。西洋的な自由に従えば、「旅の恥はかき捨て」というような開放的な自由は望めません。

 マインドフルネス瞑想によって得られた意識の在り方は、西洋的な意味で自由を得た状態といえます。一方で、坐禅を通して得られる意識の在り方は、西洋的な自由を含みつつ、「自然」と表現される自由を得られる状態になります。

 私の頭の中では、西洋的なマインドルネスと日本的なマインドフルネスが混在、あるいは併存しています。